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名 称 諏訪市文化センター(旧北澤会館)
竣 工 1962年(昭和37年)
設 計 吉田五十八
文化財 国登録有形文化財
| 諏訪市文化センター外観 | ホワイエ全景 |
この建物は、北澤工業株式会社(後の東洋バルヴ株式会社)の福利厚生施設として建設された劇場建築です。1977年(昭和52年)に諏訪市の所有となり、現在まで引き続き市民の文化活動に活かされています。設計者である建築家・吉田五十八(1894~1974)は歌舞伎座の改築設計や、日本芸術院会館、吉田茂邸などの設計を手がけた近代数寄屋建築の創始者です。1964年(昭和39年)には文化勲章を受章しています。鉄筋コンクリート造を主体としたモダニズム建築に和風要素を付加した、吉田五十八の円熟期の作品として評価され、2014年(平成26年)に国登録有形文化財に登録されました。
諏訪市文化センター(旧北澤会館)を建設した北澤工業株式会社は、諏訪市出身の実業家・北澤國男氏らによって1919年(大正8年)に設立されました。当時の諏訪は製糸業の世界的な中心地でしたが、製糸工場に欠かせないバルブは輸入品に頼っており、国産は粗悪品ばかりでした。これに北澤が着目し、はじめはバルブ修理を手がけ、のちに自社生産へと発展させました。
戦時中は軍需工場として砲弾の信管などを生産しましたが、戦後はバルブに戻り、各種バルブやコック等を生産しました。1960年(昭和35年)頃には全国の輸出生産量の10~15%を占めるまでになり、世界有数のバルブメーカーに成長しました。
現在は株式会社キッツに吸収合併され、キッツのブランドの一つとしてその名を残しています。
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| 諏訪工場を見学する皇太子ご夫妻 (現・上皇ご夫妻) |
大正8年(1919)北澤製作所創業
昭和13年(1938)東洋バルヴ工業を分離設立。爆弾信管の生産開始
昭和18年(1943)北澤工業に改組。陸軍舟艇用バルブを生産
昭和20年(1945)民需用バルヴ生産に戻る
昭和26年(1951)長男が独立、北澤製作所設立(のちのキッツ)
昭和28年(1953)東洋バルヴ工業を合併
昭和37年(1962)北澤会館を建設(のちの諏訪市文化センター)
昭和38年(1963)東洋バルヴ株式会社に改称
令和7年(2025)株式会社キッツに吸収合併
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| 諏訪工場で生産されたバルブ | 諏訪工場跡地の記念碑 |
1895年(明治28年)上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。15歳で紅花商店に奉公して商売を覚えたのち、繭の仲買人として独立しました。買い付けた繭を製糸工場に売る中で、製糸工場のバルブの故障品に目をつけ、その修理を手がける「北澤製作所」を兄弟4人で創業しました。1919年(大正8年)にバルブを自社製造する会社とし、「諏訪型」と呼ばれる寒さに強い改良型を開発しました。戦後は合併などで会社をさらに大きくし、社名も「東洋バルヴ株式会社」として世界有数のバルブメーカーに成長させました。一方で多数の優秀な人材を輩出し、諏訪地方で精密工業の企業が次々と生まれました。これにより、北澤は諏訪地方精密工業育ての親とも呼ばれました。一方で、地域や社会貢献にも功績を残したほか、文化芸術にも理解を示しました。日本を代表する芸術家と交流を持ち、また多数の作品を収集して公開施設を設けるなどしました。さらに郷里諏訪の工場隣接地に文化ホールである「北澤会館」を建設しましたが、設計は吉田五十八、ホールを彩る2枚の緞帳の原画は北澤と親交があった杉山寧、東山魁夷が制作しました。日本建築界および日本画壇の巨匠(3人とも文化勲章受章)が手がけた壮麗な建物となり、北澤の幅広い人脈が成し得た偉業の一つと言えるでしょう。
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北澤國男(竣工記念パンフレットより) |
この建物は、中庭で劇場部分と会館部分を二分する平面構成となっており、日本の伝統様式をコンクリートの現代建築に融合させた吉田五十八の独創的な発想が、存分に活かされています。
外観は入母屋風の屋根、海鼠壁状の壁面仕上げや、格子風のルーバー、菱形断面にして高欄風の作りとしたベランダ手摺などを取り入れ、内装も入口ホール天井のコンクリートに木目を転写した梁、ホール入口の朱色と黒色の螺鈿風の扉、ホワイエの金砂子張りの照明、ホール屋根のデザインを用いた格天井風のホール天井など、随所に日本建築をアレンジした特徴を見ることができます。
特に劇場は、花道を備え演出によって間口の伸び縮みが可能な舞台、六角形の客席ホールとなっており、極めて珍しい構造となっています。かつては、その舞台を覆う屏風型の大緞帳が2枚備わっており、これも他に例を見ないものでした。
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入母屋風の屋根 |
格子風のルーバー | 海鼠壁風の外壁 |
寺社高欄風の手すり |
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入口ホールの梁 |
定式幕風の扉 |
ホワイエの照明 |
格天井風のホール天井 |
1894年(明治27年)東京生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業しました。欧米視察で欧州の古典建築に感銘を受け、日本人が西洋の名建築に対決するには伝統的日本建築に近代性を与えた新たな日本建築を生み出すことであると考え、特に数寄屋造の近代化に取り組みました。戦前は主に邸宅建築を、戦後は料亭や公共施設などを手がけ、多数の名作を残しました。
吉田は北澤会館の設計について、3つの特徴を挙げました。それは演目によって間口が可変する舞台、揚幕、花道などを全て覆う屏風型の緞帳、これらを実現するために対角線型に取った舞台と客席(およびこれによって可能になった廻り舞台)で、これらは「日本で初めての、特異な劇場」であると評しました。
吉田が手がけた劇場建築は北澤会館以前に4例(歌舞伎座、文楽座、明治座、新橋演舞場)ありますが、これらは既存の建築の改築や設計上の制約が伴ったものでした。北澤会館は、吉田が初めて一から自由に設計できた建物であり、その点で吉田の劇場建築に対する思いが存分に反映された建物と言えるでしょう。また、上記の4例は当時の建物が現存しないため、北澤会館は吉田が手がけた現存唯一の劇場建築でもあります。
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吉田五十八 |
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竣工記念式典で挨拶する吉田五十八 |
北澤が北澤工業の福利厚生施設だけではなく、「地方に於ける文化の向上発展普及のために」役立つよう願った北澤会館は多くの市民に親しまれました。1977年(昭和52年)に諏訪市の所有となってからは、「諏訪市文化センター」として、市民ホールとして成人式や文化祭など市の主催事業・式典等の会場として活用されるとともに、発表会や演奏会、各種講座等で市民はもちろん多くの利用者に親しまれてきました。
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竣工記念公演記念撮影(昭和37年) |
海外の要人訪問(昭和38年) |
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| 皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻) の訪問(昭和44年) |
諏訪市成人式(昭和55年) |
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文化祭(コーラス祭)(令和6年) |
文化祭(令和6年) |
諏訪市文化センターの舞台には2枚の緞帳がありました。いずれも川島織物(現・川島織物セルコン)製で、高さ約7m、幅約27mで歌舞伎座のそれに匹敵する大きさです。独特な舞台形状に合わせて舞台袖までを覆う大緞帳で、それを2枚揃えていたのは破格であり、全国でも例を見ないスケールと形状でした。
杉山寧は製作にあたり、「緞帳は独立した画面というよりも、建築装飾として考えなければならない性質上、周囲との調和に意を用いたつもり」と述べています。画題には「明るい希望を感じさせ、かつ雄大な規模のもの」として朝陽の映す大空の情景が選ばれています。主題は、日輪と曙光に、朝雲と連山を配し、左右への広がりを考えて象徴的に構成されています。緞帳の日輪は直径7尺(2m強)あり、金糸で浮き出させ曙光を如実に表しています。ホールの色彩と統一感を取ることで、ホール全体の輝かしい光で隅々まで照らすかのような印象を与えます。
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緞帳「昇る陽」 |
東山魁夷は全国各所の緞帳を手がけましたが、なるべくその土地に関わりのある題材を描くことに努めたといいます。「清暁」も諏訪市のシンボルともいえる湖の情景が選ばれています。さらに左右の前景には長野県の県木であるシラカバが、中央にはかすかな芽吹きと満開のコブシが象徴的に描かれ、春の訪れを伝えています。また、東山作品の特徴でもある倒影によって水面に映る山々の様子は夜明け前の澄んだ空気を感じさせ、鮮やかな色彩は山国の春の明るさが画面を越えて広がっていくようです。織り上がりを想定した鮮やかな色彩と横長の構図が鮮烈な印象を高めています。
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緞帳「清暁」 |
建物とともに60年以上にわたって使用された緞帳は老朽化のため、今回の大規模改修工事に伴って撤去されました。しかし、ホールの顔として多くの市民に親しまれ、また日本を代表する日本画の巨匠が手がけたもので歴史的、美術的な価値を有することから、それぞれ一部をタペストリー化して館内に展示し、保存・活用する予定です。