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学校概要・沿革

記事ID:0004103 更新日:2020年12月2日更新 印刷ページ表示

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向学心[その他のファイル/547KB]

学校概要・沿革

学校長氏名

伊藤文

児童生徒数

265名(平成27年4月1日現在)

高島小学校沿革の概要

1高島学校の前身

高島藩の藩校である「長善館」・「国学校」,そして庶民教育の場であった「寺子屋」を廃してそこの師匠の多くと使用していた書籍や器械を集めて,明治 5年大和村に第一五小校, 6年 2月高島町に第七一小校を開設した。これらは当地区の有志の方々が費用を出し合って作られたもので,当地区の人々が教育の重要性に早くから着目していた事が伺える。

2「学制」の発布により村ごとに学校が開設される。

明治 6年 5月上諏訪村に柳口学校,下桑原村に千之学校,小和田村に知新学校,大和村に日新学校が開設された。これより数えて本年(平成27年)は 143年目にあたる。

3明治 7年,村の合併により上諏訪村が成立

三の丸に高島学校の本校,柳口・虎口・香隈に支校,大和学校を設置。
明治 12年柳口に洋風二階建ての近代的な校舎を新築し,虎口・香隈の支校を統合する。生徒数八百数十名の学校となる。

4明治 19年「小学校令」発布

22年高島尋常小学校となる。

5手長丘に移転

明治 35年,生徒数が1.5倍の 1,340名となり,手長丘に校舎を新築し 3年生以上の男子が通う。
38年,中央線の開通にともない,校庭の一部を線路が通ることで危険となり全児童を手長丘に移転した。 39年に柳口の校舎は取り壊された。

6明治 40年「小学校令」の改正

高島尋常小学校から高島尋常高等小学校と改名され,尋常科が 6か年の義務教育になり,高等科 2年が併設された。

7校舎が次々と新築

大正時代五棟・大体操場・三棟 ・六棟が新築され,昭和になって七棟,大講堂が新築された。しかし昭和 13年には児童数が 4000人を突破し大変狭くなったので,昭和 14年島崎地区(現在の城南小学校の位置)に西校舎を新築し 1,2年生を通わせた。

8昭和 16年皇国民育成を目指す「小学校令」の改正

高島国民学校と改称され,西校は分離して城南国民学校となった。

9昭和 22年「新学制」の実施

諏訪市立高島小学校となり,現在に至る。

11昭和 36年南分校新築(元諏訪中学校,平成5年取り壊される),
38年本校の前校舎が新築
40年角間新田分校が廃止されバス通学の開始
41年城北小学校分離独立

11昭和 48年 11月開校 100周年記念祭の挙行。高島学校百年史完成

12平成 14年 10月校舎全面改築により新校舎竣工。現在の校舎に移る。
15年校庭造成
16年 3月体育館竣工

以上 143年の沿革をみてきたが,明治期には本校内に郡立諏訪高等小学校が置かれ,郡内に 7カ所の分教場が置かれたり,現在の諏訪清陵高校や諏訪二葉高校,諏訪実業高校の前身を併設して諏訪における中等教育の発祥地ともなっていた。これが校歌に歌われる「諏訪の源」の意味である。
また,明治 32年子守教育の開設,大正 12年からの小沢侃二校医らによる高山保養所の開設(現在の蓼科保養学園),昭和 37年の養護学級の開設などは,いずれも児童の個性や能力に応じた教育を行おうとする努力の表れである。
そして,「質実剛健」の気風を養うことを教育の根底におき,地域の皆さんの教育に対する深い理解と協力に支えられて幾多の人材を育成し,諏訪地方の教育進展のための中心的役割を果たすべく努力してきた。


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