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御柱の歴史〜諏訪市博物館「御柱とともに」より〜

最終更新日:2015年9月14日(月曜日) 11時38分 コンテンツID:2-3-19-2529 [印刷用ページ]

はるか昔から続く御柱祭の歴史を紹介します


大正15年 八ヶ岳山中より木を曳き出す

昭和7年の木落とし



諏訪大社の概観


諏訪大社は、建御名方神と妃神、八坂刀売神を御祭神としてお祀りし、元来より本殿を持たない自然信仰であると通説されています(上社の御神体は守屋山ともいいます)。諏訪大社に関する最古の記録に、飛鳥・奈良時代に編纂された『古事記』『日本書紀』があります。

『日本書紀』には、691年に持統天皇が勅使を派遣し「須波神を祭らしむ」とあり、古くから朝廷に注目されていた事がわかります。

平安時代には、上下社とも式内社とされ著しい社格の上昇があったほか、神仏習合により、周辺に大規模な「神宮寺」が建てられるなど仏教色が濃い神社でもあり、仏教(特に密教)の御柱への影響も見逃せません。

 

式年造営御柱大祭


御柱祭は大木の曳き建てだけではなく、宝殿遷座にともなう社殿の建替えも行われており、「造営」と呼ばれています。

宝殿は東西に一棟ずつあり、7年に一度の式年毎に一方を建替え、御霊代、御神宝を遷座します。

御柱祭の様子が分かる最古の記録『諏訪大明神画詞』には、寅・申年の式年造営は平安時代の桓武天皇(在位781〜805年)の御代には行われていたとあります。

 

中世・戦国時代の御柱祭


諏訪大社は鎌倉時代には、信仰だけでなく、政治・軍事の中心となりました。式年以外でも信濃国各地の村や豪族に神社運営のための資金や人手の負担をさせたり(御頭 おとう)、また信濃の国内のあちこちで、御符を発行して祭費を徴収しました。

『大宮造営目録』(1329年)によれば、元服・結婚などの個人的なハレは慎まねばならないとあり、また、『諏訪上社物忌令之事』(伝鎌倉時代)には、家屋の新築や葬儀を禁じるともあります。

室町時代、たび重なる出兵で御柱が日程通り行われなかった時は、柱が倒れるなどの神罰があったと伝えられています。(守矢家文書)

1542年武田晴信は諏訪氏惣領家を滅ぼすと、諏訪大社が政治に参加する道を閉ざす一方で、祭祀の復興に努めました。(信玄十一軸)

天正12年の申年には、天正10年の信長の上社焼き討ちにより炎上した宝殿を復興し、神官、武士たちが多くの祭具を宝殿に奉納し、安穏平和を祈願しました。

 

江戸時代の御柱祭


徳川家は下社の復興、上社四脚門を寄進した他、1648年、諏訪大社領として1500石を寄進し、諏訪大社は高島藩から独立した小領主となりました。

式年造営は柱の曳き建てと宝殿造営のみに規模縮小されましたが、その費用は主に所領中の造営分や御師回壇の御符料でまかなわれました。

江戸時代後期、『信濃国昔姿』には、騎馬行列が出、御柱の人出はウンカのようだとあって、見物のための桟敷が設けられたりなど、民衆が運営する祭りとして非常な賑わいを見せたことが分かります。

 

明治以降の御柱祭


明治維新の大変革の中で、諏訪大社は明治政府の直轄となり、御柱祭も大きく変化しました。

明治23年には、上社で抽籤による受け持ち柱の決定が行われました。これがきっかけで江戸時代後半から芽生えていた村々の対抗意識が表面化し摩擦を生じたことから、これ以後、祭りのやり方についての細かい仕来たりができ、今日の伝統となっています。

戦後、諏訪大社は政治から離れ、昭和25年の御柱は男女同権、民主化の風潮に基づいて女性が参加できるようになりました。



 

 


大正15年宮川渡(川越し)

大正15年 秋宮の建御柱

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