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ニムラ エイイチ・・・長野県諏訪で生まれた舞踊家の生涯とその軌跡
       
            (1949年)               (1953年 スタジオ60の自室にて)

 舞踊・バレエ界では、よく知られているニムラ舞踊賞。しかし、一般にはニムラエイイチとニムラ舞踊賞のことは意外と知られていません。その理由のひとつに、ニムラエイイチが1979年(昭和54年)に亡くなるまで、一度も日本に帰国しなかったことがあげられます。
 ニムラ舞踊賞基金の設立に前後して、親交のあった舞踊評論家による研究や自伝の発行などから、ニムラエイイチの海外における高い評価や、舞踊・バレエ界に残した偉大な功績が掘り起こされました。

「諏訪が私のふるさとだった・・・」
 ニムラエイイチ(本名 三木富蔵)は、1897年(明治30年)、現在の長野県諏訪市諏訪2丁目に生まれました。家は由緒ある商家で、菓子商を営んでいました。幼くして両親との別れを経験しますが、礼節を重んじた祖父、友人や近所の人々などとのあたたかいふれあいの中で、楽しい少年時代を過ごしました。
 また、ニムラは、自伝の中で、諏訪の四季折々の自然や、一年を通して繰り広げられたいろいろな年中行事、高島小学校の思い出など、ふるさと諏訪を感慨深く回想しています。
 その後、いろいろな事情で没落していく三木家にあって、ニムラは15歳のとき、東京へと旅立ちます。代議士や弁護士の家で書生をしたり、さまざまな職業を体験しました。
 やがて、徴兵検査のために、5年ぶりに諏訪へ帰ったニムラを待ち受けていたもの、それは三木家の消滅と、先祖の墓の荒れ果てた姿でした。知人がアメリカへ渡って成功していることを思い出した彼は、「そうだ!アメリカへ行こう!新しい国、アメリカへ行こう!」と決心したのです。

「人々がおたがいに理解し合えること」
 1918年(大正7年)、21歳の秋、ニムラはアメリカの地を踏みました。シアトルでは、木材キャンプでトロッコのレール敷きのアルバイトに従事しました。労働は厳しかったが、そのおかげで筋肉隆々たる、たくましい体になったそうです。その後、シカゴへ向かう途中の列車内で、将来にわたって大きな糧となる体験をします。若い母親が生後まもない赤ちゃんを抱いて、ニムラの前に座っていました。当時、女性の顔はまともに見るものではないと、教えられていたニムラは、できるだけ顔を見ないようにしていたそうです。しかし、そのうちに自然と目と目が合うようになり、たどたどしい英語での会話が始まりました。彼女の熱心に話を聞き取ろうする優しさにふれ、皮膚の色が違っても、ことばが違っても、やはり人間同士、打ち解けることができるのだと感じたのだそうです。
 また、このとき読んでいた日本語新聞の記事に胸を打たれたニムラは、アメリカでの新しい名前を思いつきます。その記事は、タバコのニコチンがハンセン病にきくとのことから、タバコの吸殻を集め患者に送っている新村という女性を紹介するものでした。新村と書いてニムラとルビがふってありました。この心の美しい女性の苗字をもらい、英一と続けて新村英一。ニムラエイイチが誕生したのです。
 その後、いろいろな職業を体験したニムラは、ニューヨークで知り合った日本人俳優から、劇に代役で出演という知らせを受けます。

「夢を追う力、それは努力」
 当時、ニムラは、ダンスホールへ毎晩通っていたそうです。そこのダンサーたちから、ニムラは本当に優雅だ、とほめられるようになっていました。「踊りは好きな道だし、ダンサーたちがああいってくれるのだから、まんざら才能がないわけでもあるまい。」そう思ったニムラはついに決心します。「ようし、それなら本格的な舞踊家になってやろう。ちゃんとした先生について、どこまでやれるかやってみよう!」。舞踊家としてのニムラエイイチ
の第一歩でした。
 そこからたゆまぬ努力と、個性あふれる想像力により才能を花開かせたのです。午前中に舞踊のレッスンを受け、昼はレストランで働き、午後もレッスン、夕方から深夜まで、またレストランで働く。ニムラが部屋に戻るのはいつも深夜2時過ぎでした。友人のすすめでバレエのレッスンも受けるようになり、芸術の道の険しさを理解していきました。

「過去のものを慈しみ、現在の信念を大切に、未来への希望を育てる」
 1925年(大正14年)カーネギーホールで行われたデニショーン舞踊団の公演で「クアドロ・フラメンコ」に出演し、ダンサー・ニムラエイイチの初舞台を踏みます。その後、いくつかの公演に出演、1930年(昭和5年)、ついに自らの発表会を開催するに至ります。会場はブロードウェイのニューヨーカー劇場。それはいつか創作舞踊家として世に出ることを密かに考えていたニムラにとって、夢の第一歩となりました。「幕があいて、スポットライトがあたったとき、私はやるぞ!と心の中で叫んだ。そこにはもう内気なニムラも、自意識過剰なエイイチもいなかった。どんな大批評家や大舞踊家が客席にいようと、平気だった。私はただ一心不乱に踊った。ちょうど大きな筆で字をかきまくるように。」
 その後も、いくつもの大舞台を踏み、ニムラの名は舞踊家で揺るぎのないものになっていきました。専門誌ダンス・マガジンには「サムライ・ダンサー、ニムラ」と題した評伝が掲載され、イギリスやドイツの雑誌にも記事が載るようになりました。

          
            (セレモニー)                      (長刀の踊り)

          
            (ネコの踊り)                      (ジャパネスク)

      
           (旗の踊り)                         (大地の像)

       
                             (タンゴ)

 また、ニューヨークに自らのスタジオ「エイイチ・ニムラ・スタジオ」を開き、若き舞踊家の育成などにも力を注いでいきます。その学校案内にはニムラの信条が書かれていました。

 「東洋と西洋の理想と技術を融合し、芸術的で哲学的、東洋的で西洋的な、古くして近代的な舞踊の形式作りあげる。これが新しい世界のための適切な舞踊だと信じている。過去のものを慈しみ、現在の信念を大切に、未来への大きな希望を育て上げるものだからである。」

 その後、イギリスでの第一回国際夏期舞踊学校の教師、ヨーロッパでの巡演、北アメリカ大陸の巡演など、世界各地で高い評価を受けていきます。ヨーロッパ巡演では、20ヶ国を巡り、王立や国立のオペラハウスなどで公演を行いました。多くの芸術家たちとの交流もあり、その後の大きな糧となっていきました。

     ヨーロッパ巡演地図 1932年(昭和7年)〜1936年(昭和11年)
    


「受け継いだ心がある」
 1940年(昭和15年)、ニムラはカーネギーホール・スタジオ61に「バレエ・アート・ニムラ・スタジオ」を開き、後進の育成に情熱を傾けていきます。多くの舞台での振付、新たな舞踊の創作にも取り組んでいきます。
 1945年(昭和20年)には、ニムラ振付による「琵琶記」が大ヒット。出演したユル・ブリンナーが後に「王様と私」で大成功したとき、「それは、あのときニムラから受けたインスピレーションによるものだ。」と語ったそうです。
 また、ニムラは、世界へ飛び出そうとする多くの日本人に力を貸しました。世界博覧会に出演する宝塚少女歌劇団、歌舞伎のアメリカ公演への支援のみならず、ふるさと諏訪地方の精密工業界のアメリカ進出にも手を差しのべました。


    (1954年 ドクドーフスキー先生と)           (1955年 愛弟子の大滝愛子と)

     
       (1957年 吾妻徳穂さん一行と)       (1956年 諏訪の精密工業社の役員と)

 ニムラは、舞踊に対する自分自身の考えの中で、次のように書いています。

 「舞踊を生みだすのは、もちろん、頭のなかでだが、私の場合、それはスタジオばかりとは限らない。霊感はいつ、どこでも湧いてくる。いなか道をゆっくり歩いているときでも、都会の大通りをいそいで歩いているときでも、時にはゴルフをしているときでも、湧いてくる。」

 「私の考えるところでは、舞踊にはすべて、語りかけるものがなければならない。私は自分のすべての舞踊において、時に応じてストーリーを物語ったり、私の信念を表現したりする。単に踊りのために踊ることは無意味であり、何も語るべきものを持たない舞踊家は自動人形のようなものである。」

 「バレエの技法と私の舞踊との関係については、よく聞かれることだが、私はバレエの基礎訓練をどんな舞踊家にも有益なものと思っている。動きを正確に、そして敏速につかめるようになるからだ。私は自分の考案した練習システムを持っているが、それには、これまで私の学びとったさまざまなテクニックばかりでなく、バレエの原則もふくまれている。ただ、バレエの踊りについてあきたらないのは、からだの上部、胴や手や腕の動きに十分な注意が払われていないことだ。からだは、そのすべての部分がコントロールされなければならない。ちょうどネコのように。」

 「あなたの仕事には、どれだけ伝統が受け継がれているかと、よくアメリカ人に聞かれる。私の舞踊はとくに伝統にはもとづいていない。伝統的なものがあるように思えるのは、私の心が日本人だからで、それこそ、私が祖先から受け継いだものだからである。」


 1969年(昭和44年)、日本から勲六等瑞宝賞を受けたニムラは、1979年(昭和54年)その人生の幕を閉じました。
                      
                              (1970年)