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御柱祭の身支度について

最終更新日:2010年3月12日(金曜日) 13時37分 コンテンツID:2-3-19-2889 [印刷用ページ]

日本の祭り、そして御柱祭に欠かせない物に「法被」があります。
今回は、見るだけで楽しくなる御柱祭の祭り支度についてのお話を・・・。


刺し子法被 幕末〜明治前期に寅年に合わせて作られたと伝える。

寅年の御柱に合わせて斧入れする名主の子供用に作られた物。上諏訪清水町の物

御柱祭では富士見町・原村・茅野市・諏訪市・下諏訪町・岡谷市が奉仕し、諏訪圏全体が御柱祭で盛り上がります。御柱の曳行に直接関わる氏子はもちろん、地元の市民や企業の方を含めるとその数は計り知れません。
当日は、市町村や企業で作られた法被や、曳行担当地区で作られた法被を着た人で沿道は埋め尽くされます。色とりどりの趣向を凝らした法被や出し物のきらびやかな衣装を見るだけでも心が躍ってしまいそうになります。実はこの法被にも、古くからの歴史があります・・・。

その昔、御柱祭の法被は祭りだけのものではなく、作業着としての役割も大きかったようです。膝丈程の長さの、農作業にも耐えられる頑丈な糸で織られた法被は、祭り以外の農作業等でも重宝し、諏訪で生きる人々には欠かせない物でした。御柱祭の度に女性達によって新調され、御柱祭が終わるとそれを作業着としてボロボロになるまで使用するのが一般的だった様です。

諏訪市博物館"「御柱とともに」御柱祭展写真集"によると、『江戸時代の絵巻物から窺える曳き子の姿は,鉢巻き、襦袢か薄手の着物、ふんどし、脚絆、草履、または裸足だ。幕末頃はある程度揃いの法被があったようだ。明治から戦後にかけては、一部を除いて消防組が曳行の中心だった為に、消防の法被(背中に地区の名前がある)、腹掛け、股引、制帽で黒ずくめだった。大正15年には、上諏訪町長が祭りの雰囲気を高める為に揃いの法被の新調を呼びかけたが時世を鑑みて見送りとなった。
諏訪市で現在統一されている法被の原形は昭和49年以降でき、現在は基本的に各市町村別に別れているが、祭りの雰囲気を高めるため独創性を競い合う傾向があり上社は特に多彩だ』とあります。

現在は、市町村で統一された法被の他に、曳き子や梃子衆など、御柱に直接関わる氏子の方達は、地区ごとに法被を揃えて一目でどの地区の人かが分かる様になっています。法被だけでなく腹掛けやTシャツ、地下足袋など、細部までに各地区独自のこだわりがあり、それを基に御柱祭の支度が整えられています。
今年、上社本宮一の御柱を担当する湖南中洲地区は、2地区で同色の御柱衣装(主にTシャツ。上に着る法被は地区の物)を採用している為、御柱の周りは2地区のカラーである山吹色一色となります。柱を曳く地区の旗を始め、法被やシャツの色を見れば、どの柱が通っているのかがすぐに解ります。

柱の曳き建ての関係の他にも、里曳きの出し物や地元企業のお宿(休憩所)などで色とりどりの揃いの祭り支度を見る事が出来ます。
また、中には御柱祭の為に何十万円も掛けて個人的に御柱衣装を準備する方もいるそうです。
御柱祭は寅年と申年に行われる為、寅年の開催時は虎の刺繍、申年の開催時では猿の刺繍を施した衣装を身につける方もいるとの事。
これに加え、市販の祭り用法被を着た観光客の方々などが参加し、まさに「絢爛」の言葉がふさわしい祭りとなります。
昔から各地より大勢の人が集まった事から、「人を見るなら諏訪の御柱」と言われる通り、賑やかに華やかに祭りは進行します。

現在では情報網や交通網も発達し、祭りの様々な準備も昔ほど苦労する事は少なくなり、そんな世相の移り変わりと共に、御柱祭の祭り支度も変化を遂げてきました。祭りの装いから歴史を見てみるというのも面白いかもしれません。

 


大正〜昭和初期 梶の葉(大社の紋)に上諏訪と朱染めされる。祭りが終わると作業着に

大正〜戦後 背中に「洲羽(すわ)」と染める。

昭和49年 諏訪市のマーク入り。この時から「祭」の字が入った。

四賀地区(飯島・神戸・沖田)の法被。一つの地区の中でも様々な法被が。

法被の下も実に多彩。女性用は勿論、小さな子供用の物も。個性が光ります。

湖南・中洲地区は全員で下に着るTシャツを山吹色一色に揃えています。

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